こんにちは、まじめちゃんです。
みなさんは、「どうして私だけがこんな辛い目にあうんだろう?」と思ったことはありませんか?
頑張っているのに上司は認めてくれない
俺は認められないのに、あいつばっかりえこひいきされる
体調には気をつけていたのに、病気になってしまった
子ども(親)が不幸に襲われてしまった など
社会は理不尽さに溢れています。いざ理不尽さを前にすると、「なぜ私が?」とは思わずにはいられません。
確かに自分は完璧ではないかもしれないけど、こんな辛い目にあわされるほど悪人でもないはず!どうして神様は私をこんな目に合わせるんだろう?
そう思った時に読んで欲しい本を紹介します。
なぜこの本が人の心を動かすのか?
私が紹介したい本は、
という本です。
内容の前に、この本が生まれた背景や筆者のことをご紹介します。その方が、よりこの本の魅力を伝えられると思うからです。
この本が出版されたのは1981年、今から約40年近く前のことです。まだ冷戦は続き、ベルリンの壁やソ連は大きな圧迫感を持って、存在していました。
日本だと、昭和56年、ピンク・レディーが解散したり、「オレたちひょうきん族」と言う伝説的なバラエティー番組が開始した年だそうです。(私は生まれる前なので、実感が湧きませんが…)
当然iPhoneどころか携帯電話もありません。インターネットもありません。
そんな昔に書かれた本なのに、色あせることなく読者の心を打つ本です。それは、「なぜ私だけが苦しむのか」という人が持つ普遍的な憂いについて書かれているからです。
筆者のH.S.クシュナーはアメリカのとある地域でラビを務めています。ラビというのは、ユダヤ教の教師のことです。キリスト教の教会にいる牧師さんを思い浮かべてもらえればわかりやすいでしょうか。
その地域で誰かが結婚すれば結婚式を執り行い、誰かが亡くなれば葬儀を執り行う。そういう役目をになっていました。
大事なことは、彼は他の人よりも神を信じ、神に仕えていたのです。そんな彼に不幸が訪れます。
彼の息子アーロンが早老症(プロジェリア)という病気だと判明したのです。
早老症とは、染色体異常により生まれながら人より数倍のスピードで全身が老いていってしまう病気で、平均寿命は13歳と短い命が運命付けられています。
以前同じプロジェリアのアシュリーちゃんの様子が、フジテレビで放映されていましたので、ご存知の方もいるかもしれませんね。
(彼女も17歳で亡くなっています。)
https://www.fujitv.co.jp/b_hp/thenonfx/300/miji.html
また、映画「ベンチャミン・バトン 数奇な人生」の主人公は老人のような見た目で生まれ、成長するにつれて若返っていきますが、これはプロジェリアをモデルにしているとも言われています。
話が脱線しましたが、筆者の息子アーロンも生まれながらにして、結婚も自分の家族を紡ぐこともできないだろう人生が約束されていたのです。
その事実を知った時、クシュナーは思いました。
こんなことが起こるなんて、どこに道理があるのだ。私は悪い人間ではなかった。神の前に正しいとされる生き方をしようと思っていた。それよりなにより、私ほど熱心に神に仕えていない人のなかにも、私より問題のない健康的な家族に恵まれている人がいるではないか。私は、自分が神の御心にかなう生き方をしていると思っていたのです。それなのに、なぜ私の家族にこんな不幸がおそいかかってきたのでしょうか?もし神が存在するなら、愛だの赦しだのという以前に、ほんのわずかでも公平をわきまえる神が存在するのならば、なぜ私をこんな目にあわせるのでしょうか?
繰り返しになりますが、彼は聖職者です。神を厚く信仰しています。それでも、このような悲劇は彼をここまで思わせるのです。
日本人は一神教徒ではありませんから、神の存在を当たり前のように口にされていることに、違和感を覚えるかもしれません。
しかし、日本人も何か不運に巡り合った時、「バチが当たった」と言うでしょう。普段は神の存在を信じていなくても、何か大きな不幸が起きた時、神に祈ろうとするのではないでしょうか。そのような感覚を思い浮かべてもらえればいいと思います。
(ちなみに私はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもありません。)
理不尽さに嘆く人を救う3つのポイント
この本には、身に起こった不幸に嘆く人の心を救う3つのポイントがあります。
これはクシュナー自身が不幸を体験して得た教訓であり、その結果ラビとして人を支える立場として得た教訓でもあります。
①神に人を罰する力はない
自分に理不尽なことが起きた時、「どうして自分が不幸に選ばれたのか?」と思ってしまいがちです。
特に一神教を信仰している人たちは、「なぜ神は私にこのような不幸を与えるのか?」と嘆きます。
神を信仰していなくても、例えば自分が母に冷たい態度を取ったから、母が事故にあってしまったのだ、などと考えてしまいがちです。
しかし、筆者は「神に人を罰する力はない」と言います。なぜなら、人は自由だから。
究極的に言えば、人は傷つけあう自由さえ持っており、誰かを傷つけようとした時に、超越的な力で止められたりはしません。いいことをする自由もあれば、悪いことをする自由もあります。
だからこそ、あなたが不幸に見舞われたのは、神があなたを罰しようとしたからでも、あなたが悪いことをしたからでもなく、ただ混沌から生まれた巡り合わせというだけです。
あなたがそんな目にあう理由はないと筆者は語ります。
②自分を責めない、人を責めない
繰り返しになりますが、何か不幸なことが起こった時、人は自分を責めてしまいがちです。それはなぜでしょうか?
その理由の一つとして、「世界は道理にかなっている」という考えがあると言います。全ての現象に原因や理由があるから、悪いことが起きた時も自分(や大事な人)がそんな目にあった原因や理由があるはずだと考えてしまうのです。
確かに、とある交通事故が起きた原因はあると思います。例えば、前日仕事で徹夜をして睡眠不足だった、ブレーキの調子がよくなかったなど。
しかしその交通事故に巻き込まれる人がその人である理由なんて、あるはずがありません。なぜ毎日その道を通っているサラリーマンではなく、偶然その日だけその道を選んだ母が事故にあったのか、そんな理由はないのです。
また、このような不幸にあった人に、間違った対応をして悲しみに追い討ちをかけてしまう人がいます。
例えば、きっとこの経験にも意味があるんだよ。
そんなに悲しんだら亡くなった人がかわいそうだよ。 など
悲しみに見舞われた人に必要なのは同情です。
良かれと思っているからこそやってしまいそうな気をつけるべきことが、この本には書かれています。
③苦悩や悲痛や広範囲にある
この本の中で、私が感銘を受けた箇所を抜粋します。
苦悩や悲痛は世界のすべての人に平等に配分されているわけではないけれど、極めて広範囲にわたって配分されているということです。
悲しむなと言っているわけではありません。悲しいときは思い切り悲しめばいいと思います。私もそのようにしてきました。
しかし、もし「どうして私が?どうして?どうして?」と答えのない疑問に苦しくなってきたら、上の言葉を思い出してみてください。
最後に、繰り返しになりますが、この本はユダヤ教のラビが書いている本です。ですので、一神教を信じる人が少ない日本人には、少しイメージしづらい部分があることも確かです。
しかし、「なぜ私だけが苦しむのか?」という誰もが持つ問いに、一筋の光を投げかけてくれることは確かです。
一度読んでみてはいかがでしょうか?